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ミヨネット号の遭難 1884年9月20日~あなたが陪審員だったら、彼らを裁くことができるか(実話)

    
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ミヨネット号の遭難 1884年9月20日~あなたが陪審員だったら、彼らを...

ミヨネット号は、南大西洋の喜望峰から2000キロ離れたところで沈んだ。乗組員は4人。船長のダドリー、一等航海士のスティーブンズ、船員のブルックス、そして、給仕のパーカーは17才。彼は孤児で、身寄りもなく、これが彼にとっては最初の長い航海だった。
新聞によれば、友だちはパーカーに「行くな」と止めたが彼は「この旅が自分を男にしてくれるだろう」と考え、若者らしい希望に胸をふくらませて出港した。しかし、そうはならなかった。
沈没後、4人の船員は救命ボートへと避難した。彼らが持っていた唯一の食料はカブの缶詰が2つだけで、真水はなかった。最初の3日間、彼らは何も食べずに耐えた。4日目に、カブの缶詰を一つ開けて食べた。その翌日、亀を捕まえた。それから、数日間、彼らはもう1つの缶詰と亀を食べて持ちこたえた。  だがそれ以降の8日間、彼らには何もなかった。食べ物も水もなかった。給仕のパーカーは救命ボートの底に横たわっていたパーカーは他の者の忠告を無視して海水を飲んだために具合が悪くなっていた。
9日目、船長のダドリーは、皆でくじ引きを行い、残りの者を助けるために誰が死ぬかを決めようと提案したが、ブルックスが拒否し実行されなかった。
翌日、あいかわらず救援船は現れず、船長のダドリーは、ブルックスに見ないように言い、スティーブンスに「パーカーを殺そう」と合図した。
ダドリーは祈りを捧げた。彼はパーカーに「おまえの最期の時が来た」と告げ、ペンナイフで、頸静脈を刺して殺した。ブルックスは、良心による拒否から抜け出し、身の毛もよだつような恵みを享受した。
それから、4日間。3人は、パーカーの体と血液で生き残った。
そして、彼らは救助された。そのときの事を婉曲表現で日記に書いている。
「24日目に、我々が、朝食を食べていると・・・ ついに船が現れた」

3人は、裁判にかけられました。
あなたが、陪審員だったら、どう判断しますか。

 

(実際の結果は)

母国に送還されると殺人罪で拘束された。
彼らは、事実はすべて認めた。人肉を得るためパーカーを殺害したのは事実だが、そうしなければ彼ら全員が死亡していたのは確実であり、仮にパーカーが死亡するのを待っていたら、その血は凝固してすすることはできなかったはずであると主張した。

はじめ、「カルネアデスの板」に見られる緊急避難を適用した違法性の阻却が考えられたが、イギリス当局は起訴。陪審員は違法性があるか否かを判断できないと評決したため、イギリス高等法院が自ら判断することになった。結果、これを緊急避難と認めることは、法律上と道徳上から完全に乖離していて肯定できないとし、謀殺罪として死刑が宣告された。
しかし、世論は無罪が妥当との意見が多数であったため、当時の国家元首であったヴィクトリア女王から特赦され禁固6ヶ月に減刑された。

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